〈コラム〉力を抜いてゆっくりと

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丸山敏秋「風のゆくえ」第14回

40歳になってピアノを習い始め、3年間つづけたことがある。
得意とする楽器は一つもない。妹たちが家の中で弾く練習曲を20年以上も聞かされつづけたため、とくにピアノに対しては怨念のような悪感情を抱いてきた。
ところが、年齢を重ねると「いやだ」とか「できない」と思い込んでいたものに挑戦してみたくなる。
かつて俳優の片岡鶴太郎さんと対談したとき、40歳を前に突然、絵を描きたくなったと語っていた。左利きの彼は、絵も書も不得手と思い込んでいたのに、のめり込んだらいつしか素人の域を越えてしまったのだ。
筆者の場合はピアノへの挑戦だった。知人から紹介されたHさんがピアノ教師で、彼女の話に興味を覚えた。「毎日義務のようにやらなくてもいいんです。時間のあるとき、弾きたくなったとき、一日に10分でも20分でもわたしの教え方をやれば、グングン上達しますよ。大人だから指が動かないということはけっしてありません。意識でピアノを弾くのですから…」。
それなら自分にも出来そうだ、やるからには3年はつづけよう。そう決心して弟子入りし、週に一度のレッスンに通った。最初の日、ひとさし指である鍵盤を押して音を出し、押し方で響きがかなり違うことを確認してから、幼児のためのピアノ教本を渡され、簡単な指使いを習った。H先生いわく、「ゆっくりと、一音一音の響きを聴きながら音を出すこと」。
わが家には譲り受けたアプライト型ピアノが鎮座しているが、ほとんど触ったこともない。驚く家族を尻目に、出張以外の日はたとえ5分でも、鍵盤に触れるよう心がけた。
とにかく「ゆっくり」と弾く。つとめて楽譜にある通り「正確に」弾く。そしていい響きを出すため、腕と指の「力を吹く」のが練習の基本である。楽譜の休符にはとくに注意し、「無音の音」を響かせる。少し慣れてくると、つい速く弾いてしまうのだ。速いと正確さを欠く。力が入ると音が濁る。どれもみな大変に難しい訓練だった。
3年の間に、バッハやモーツァルトの練習曲もいくつか弾きこなせるようになった。自分なりに満足したことでレッスンに通うのはやめたが、ピアノを楽しむ以外にも、教えられることが多かった。
現代人は「時は金なり」とばかり、スピード症候群に冒されている。速さを競わされると、心はいつも緊張し、ストレスが蓄積してくる。心も体も顔もこわばり、人間関係はぎこちなくなる。力を抜いて自然体になれば、もっと楽に生きられるのに・・・・。
ピアノの前に坐らなくてもいい。リラックスしてゆっくりと会話したり、本を読むだけでも、自然体を取り戻せる。慌ただしい日々、ゆとりある時間を少しでも持つ工夫をしたいものだ。
(次回は6月9日号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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