【連載】おばあちゃま、世界を翔ぶ-7 田中角栄首相より先に、文化大革命を見た

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龍村ヒリヤー和子〜情熱とコンパッションの半生記〜

第7回 国交のない中国へ行った話

私の人生には本当に面白いことがたくさんありましたが、この話は中でも興味深い話だと思うのですよ。だって、何十年も国交の無い国(1979年に復交)に行ったんですから。

天安門で暴動が起きるもっと前に撮影した貴重な写真(1972年)

天安門で暴動が起きるもっと前に撮影した貴重な写真(1972年)

世界を驚かせたニクソン訪中

1972年2月、世界を驚かせたニュースがありました。当時まだ国交のなかった中国(中華人民共和国)へ、アメリカのニクソン大統領が行ったのです。この頃は第2次世界大戦後の共産主義と民主主義の対立が世界に大きな影響を及ぼしていて、ニクソンが大統領になった頃は中国とソ連の関係も悪く、国家間で様々な形での政治取引や水面下での交渉が渦巻いていたのです。

そんな中、1971年の春にアメリカは、「ピンポン外交」と後に呼ばれて有名になる方法で中国との交流をスタートさせました。日本の名古屋で卓球の国際大会があったのですが、それに参加した後、アメリカの卓球選手団が中国を訪問したんです。そしてその翌年、ついにニクソン大統領自身が中国を訪問して、毛沢東主席や周恩来総理と会談したんです。この一連の流れでアメリカと中国の関係が対立から和解へと変わっていったので、この訪問は第2次世界大戦後の冷戦時代の転機になったと言われています。

米国からの一般市民の最初の訪中団1人に

その衝撃のニクソン訪問から1カ月後に、中国政府が米国の有力な一般市民を12人選んで4月に招待しました。選ばれた12人には、私は勿論入っていなかったのです。アメリカのCBSやABCのチェアマンですとか、雑誌「TIME」や新聞、有名な出版社のトップとか。

私の友人で出版社の偉い人がいましてね、彼がその12人の中に入ったので私は、いいなあ、行きたいなあとずっと言っていたのですよ。そうしたら何と出発の前の日に電話がかかってきて「病気になった人がいるから、あなた行きたいですか?」と言われて、勿論即答でイエスと言いました。すぐに諸々アレンジしてくれて、スイスの大使館がオフィスにきて、ビザやパスポートの手配などをしてくれました。1972年の4月にロシアを通って行きました。

一般の中国人に会えた

滞在中はなるべくたくさん一般の中国人を見たくて、50代の参加者と二人で早朝4時とかにホテルをこっそり抜け出してね(笑)。街に出ちゃいました。おかげで一般の中国市民がどんな生活をしているのかを見ることができました。ほかの国で夜にしているようなことを、朝早くから活発にやっているんです。夜は、電気がついていないから6時くらいになったらもう真っ暗で、何もなくなるからなんです。猫1匹歩いていない本当の真っ暗闇で。あんな風景を自分の目で見ることができたなんて、本当にすごいことだと思いますね。

朝早く、麻雀をしたりバレーボールをしたり、もちろん太極拳も、綱引きをしたり、餃子とか小籠包とか、屋台で食べたりしました。綱引きには私、何度か参加しましたよ(笑)。もちろん誰も外国語は話さないので、なんでも漢字で書いて、向こうも漢字で書いてくれて通じました。一般人に会えたことが私のすごい成果だったと思います。

この頃は、全員がグレーの人民服を着て、女性はお化粧は禁止されていて、髪の毛もおかっぱか三つ編みに編んでいるだけ、そして、何も話せません。この時中国に行けて本当によかったと思っています。毛沢東の文化革命の最後の一部を見られたのですから。田中角栄首相の訪中の6カ月前だったのですから。

チベットに興味を持ったのがその1年前の1971年で、中国へ行ったわずか数カ月後の1972年夏に私はチベットを訪ね、チベット民族オペラの公演をアメリカとカナダへ持ち帰ることになるわけですが、中国とチベットの関係はとても悪いですから、もし私が先にチベットに行っていたら、政治的な理由で絶対に中国に行けなかったはずなんです。

記録にない旅

不思議なことに、この旅行のことはどこにも記録が残っていなくて、あった事実が抹殺されているようです。写真の撮影も制限されていたので、あまり見せられるものが残っていなんです。

(この連載は毎月第1週目と第3週目に掲載。次回は12月16日号掲載)

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龍村ヒリヤー和子(たつむら・ひりやー・かずこ) 東洋医学医師、人道活動家、Gaia Holistic Inc代表。
兵庫県宝塚市生まれ。音楽家にあこがれ幼少時よりピアノに親しみ、桐朋学園大学を卒業するが、1961年に渡米しボストン大学・ニューヨーク大学を卒業後、音楽家ではなく国際興行主としての活動を開始、グローバルな舞台芸術と文化交流の先駆者なる。世界各国の首脳やセレブリティーが関わる歴史的記念イベントの制作・演出などにも関わり、公式な外交関係のない国家間の文化交流促進にも寄与するなど多大な貢献を重ねてきた。世界中で毎年1年2000回のプロデュースを手掛け、148カ国以上を訪れ、何度も表彰されている。
2000年より東洋医学の医師に転身、01年ガイア・ホリスティック・サークルを設立し代表に就任、07年には出版社「心出版」を立ち上げる。世界各地の避難民、戦争犠牲者、ホームレスや家庭内暴力の犠牲者などの救済を行うなど人道的活動においても多大な貢献を続けており、世界各地での慈善事業に従事する他、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と共にチベット孤児の教育活動に従事している。遠赤外線温熱療法にテラヘルツを組み合せた独自なホリスティック療法は世界的に評価されている。今は世界の会議から招待され、発表、教育をしている。
01年、9・11の米同時多発テロ悲劇のすぐ後にガイア・ホリスティック基金を創設。「212-799-9711まで、お電話ください。感謝合掌 和子」

(2017年12月2日号掲載)

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