〈コラム〉鶴は龍になって舞う

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第101回

3年ほど前に、中国の元大臣クラスの老婦人から「千鶴図」と題する写真を頂戴した。縦45センチ、横230センチ。無数の白鶴が湿地から飛び立とうする瞬間をカメラがとらえている。

それを額装して自室に飾ってから、姓名に「鶴」が入った魅力的な3人の女性が、ここ紀尾井町のオフィスに姿を現した。そのうちの一人は、「とにかく一度会ってほしい」と手紙を寄越し、半ば強引にやってきた。「ソプラノ歌手です。全国の護国神社を巡り、〈君が代〉を歌って奉納しました。また世界各地に出向いて、その国の国歌を現地の言葉で歌っています」と、黒いジャージ姿の彼女は言う。

いかにも怪しい。しかし偉人や大物には怪しい面が多々あることを知っている者としては、邪険な扱いもできない。「いますぐに歌を聴かせてもらえますか?」「はい、いつでも」ということで、スタッフが大勢いるフロアにお連れした。彼女のリュックには、伴奏の音源装置がいつも入っている。

いきなりの歌は、高名なオペラ曲「トゥーランドット(誰も寝てはいけない)」だった。〈な、なんだこの透明な声は…〉。人間技とは思えない迫力のある歌声に、腰を抜かしそうになった。何度か現地で聴き知っているブラジルの国歌を所望すると、すぐに確かなポルトガル語で歌い出すではないか。敬虔な姿での「君が代」の熱唱には眼の奧が熱くなった。

鶴澤美枝子という名のその人は、香川県高松市に生まれ、6歳のときにおたふく風邪に罹って九死に一生を得た。オペラに惹かれ、15歳のときにマリア・カラスに魅了されて、独自の歌唱法を身につけていく。結婚し、母親となり、福岡に移住して、子供たちに歌を教えながら独習をつづける。55歳のときに帰郷。神社での「君が代」奉納は2年半に及んだ。そして還暦になった「鶴」は、世界へと飛び立った。自称「歌バカ」である。

彼女は今年も6月から「たった一人のワールドツアー」に出ている。ビッグなスポンサーなどいない。ツテもお金もなければ、ストリートライブをしながら、危険と隣り合わせで五大陸を廻る。行けばなぜか助っ人が現れる。今回の行程はなんと6万キロにも及ぶらしい。

鶴澤さんは時折、「お天道様」からの声が聞こえるという。その命を受けて、神社を巡り、ワールドツアーにも出た。夢や希望を歌声に乗せて、出会う人々に届けるのが彼女の使命なのだ。

一昨年はブータンで歌い終わると、いきなり首相が舞台に現れ、「あなたのブータン国歌を聴いて龍が天に舞い上がるのを見ました」と伝えられたという。

昨年のツアーから戻った鶴澤さんから、筆者は作詞の依頼を受けた。「来年はその歌で世界を廻りたいから」というのである。なんと曲は、リムスキー=コルサコフ作曲の交響組曲「シェヘラザード(シェエラザード)」の一節である。

頭を抱えながらこの曲と格闘して、なんとか仕上げた。それをさらにアレンジした〈宇宙(ゆめ)〉というタイトルの歌を、今日も彼女がどこかの国で歌っていると思うと、身が引き締まる。世の中には、こんな不思議な人がいるのである。

(次回は9月第2週号掲載)

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『ともに生きる』(倫理研究所)など多数。

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