〈コラム〉「そへ」の効用

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第61回

もう30年近くも前になるが、東京芸術大学の教授だった野口三千三氏の公開セミナーに参加したことがある。まことに独創的な「野口体操」が世に知られはじめた頃で、野口氏の軽妙な語りと、信じられない体の動きには度肝を抜かれた。

大正3(1914)年に群馬県で生まれた野口氏は、小学校の教師をしながら、まったくの独学で解剖学の専門書を何冊も暗記し、それを自分の体の感覚で確かめていった。すると、死体解剖を基礎とした体操の理論と、現実の体の動きとは、いくつもの矛盾があることに気づく。

ふつうスポーツの世界では、どれだけ速く走り、高く飛び、難しい動きができたかを競い合う。ところが野口体操では、その動きが自分にとって心地よいかどうかを、体の声を聞きながら行う。力ずくでなければできないような動きはできなくてよい。やっていくと、「力を抜けば抜くほど力が出る」という逆説が起きてくる。

たとえば、「おへそのまたたき」という動きがある。床に仰向けに寝て、両手を頭上に伸ばし、臍の周辺の筋肉のわずかな緊張だけで上体を起こす。そのとき、使う力が小さければ小さいほど、上体の動きはなめらかになる。腹、胸、首と順番に持ち上がって、最後に頭がついてくる。腹筋運動とはまるで違う。

「臀たたき」という動作も面白い。踵や足の裏で臀部を叩くだけなのだが、足の力でやろうとしても絶対にできない。脚の力を抜き、全身がムチのようにしなやかになってはじめて、臀部をパシッといい音を立てて叩ける。それがどれほど難しいか、やってみたらすぐにわかる。

野口体操の核心は、重力に逆らわず、体を緩ませて、自分の重さで動作することにある。地上に存在するものすべては、重力という「見えないエネルギー」に支配されている。二足直立歩行ができる人間は、他の四つ足動物よりも、重力による負担が大きい。歳をとると背は曲がり、体全体が縮んでいく。腰痛を発するのは人間の宿命で、筆者も悩まされている。

最近、久しく忘れていた野口体操を思い出し、朝の柔軟運動に採り入れてみた。筋力ばかりを使う体操になっていたのを改め、歩く姿勢にも気をつけるようにした。それだけで、体が軽くなり、気分がいい。

良い姿勢とは、体に中心軸が通っていて、背中の筋肉が緩んでいる状態だという。「へそ」のちょうど真後ろを意識するよう野口体操では教える。その部分を「そへ」と呼ぶ。良い姿勢を保つと、いわゆる「丹田」に力がこもる。腰にも膝にも、首にも肩にも負担がかからなくなり、呼吸が楽になる。自律神経も整ってくる。

そんな小さなことでも、意識するかしないかで、体全体がまったく変わる。万事がそうなのだろう。物事には大事なポイントがあり、ツボがある。それを知らなかったり、見失えば、どれほど損をすることか。

政治も経済も経営も教育も、事をうまく運ばせるツボがあるに違いない。普段は見落としている意外なところに、それはあるのだろう。現場で揉まれながら、見つけていくしかない。

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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