〈コラム〉切羽詰まれば……

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倫理研究所理事長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第40回

不動産会社を経営しているK氏の昔話である。彼は無類の朝寝坊だった。バブル時代ほどの夜遊びはできなくなったものの、夜型生活はさっぱり改まらない。家族との不仲から、家に早く帰りたくないとの思いもあった。
深刻な不況となって、K氏の会社も一気に傾いた。20人はいた従業員は数人だけとなり、妻を無理矢理に会社で働かせたが、夫婦は口論が絶えない。顧客も寄りつかないほど社内の空気は険悪になった。
会社の命もあと数カ月と観念したある日、学生時代の旧友がフラリと訪ねてきた。近くの喫茶店で会社や家庭の窮状を告白したK氏は、旧友のアドバイスに耳を傾けた。
「とにかく明日から早起きしろ。目覚めたら、間髪入れずに起きるんだ。奥さんに〈おはよう〉と明るく声をかけよ。気づいたことは先延ばしにせずすぐやれ。騙されたと思ってやってみたらいい。きっと何かが変わるぞ……」。それがアドバイスの内容だった。
藁にもすがりたいK氏は、翌日から実行に移した。早起きは辛いし、自分から妻にあいさつの声をかけるのはもっと苦しい。けれども一週間やりつづけた。早い時間に会社に出て、掃除も始めた。それまで味わったことのない爽快感に包まれる。K氏の変貌ぶりに、妻も社員も驚いた。誰より驚いたのはK本人である。「やればできるじゃないか」と。
実行して10日ほど過ぎたある日、大きな仕事が舞い込んできた。それで息をついた会社は、空気がすっかり変わった。元の顧客が戻ってきたり、新しい仕事が増えていく。窮地は切り抜けられたのである。旧友に感謝の言葉を伝えるK氏は、こう言い添えた。――「あたりまえのことを、自分は忘れていたよ」と。
「切羽詰まる」という言い方がある。「切羽」とは日本刀の鍔(つば)の両面に添える薄い楕円形の金物のことだ。これが詰まると刀は抜けなくなってしまう。敵と斬り合う場面で刀が抜けなかったら、もうどうにもならない。
だが人間、そんな窮地に追い込まれてこそ、霊感がはたらき、妙手が得られるものだ。プライドも私欲も一切をかなぐり捨てれば、何だってできる。苦境を脱したいという強い思いがあれば、応援者も現れる。
K氏の場合のように、生活習慣を変えるのは、とても面倒だし、なかなか苦しい。「小さなこと」「あたりまえのこと」が意外にできていない自分である。それこそ切羽詰まらなければ、本気になって自分を変えようとはしない。人生とは、そういうものであろう。人はみな、良かれ悪しかれ「思う」通りの人生を歩んでいるのである。そう考えれば、切羽詰まるという事態も、また喜ばしいことではないか。
中国の古典『孟子』にいわく――
「道は近きにあり。しかるにこれを遠きに求む」。苦境突破の道も、日常足下の実践にあることを心得ておきたい。「小さなこと」から人生が変わる。そして家庭も変わり、会社も変わる。変わらないのは、それを行わないからである。(次回は8月第2週号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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