〈コラム〉「大アジア主義」の理解

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歴史力を磨く 第15回
NY歴史問題研究会会長 髙崎 康裕

「大アジア主義」と言えば、日本のアジア侵略を正当化する思想との批判がなされてきた。しかし、この言葉を最初に唱えたのは日本人ではなく、中国革命の指導者であった孫文である。「大アジア主義」とは、欧米の植民地主義にアジアが団結して対抗し、解放しようとする考えに他ならない。

欧米列強のアジア進出に対し、日本では既に幕末より多くの識者が危機感を持ち、勝海舟などは日中韓の三国合同艦隊でこれに対抗する策なども構想していた。明治に入り、西郷隆盛が唱えたとされる「征韓論」も、その真意は朝鮮に自ら赴き、友好協力関係を構築して朝鮮開国を求めるという、「遣韓論」とも言うべきものであった。

こうしたアジアの団結の思想を世界に向かって呼び掛けたのは、岡倉天心であった。彼は明治36(1903)年に『東洋の理想』を英文で出版し、その冒頭に「アジアは一つである」と謳った。続けて、アジアの心は欧米の「ひたすら個別的なものに執着する思想」と異なり、支那文明やインド文明も「究極的・普遍的なものに対する広やかな愛情」においては共通であると説いた。更に『東洋の覚醒』という書では、アジアが欧米に屈従している現状を嘆き、同時に「日本の輝かしい復活は、アジア復興の一つの実例として極めて教訓的である」と日本の近代化成功の意義を掲げながら、次のように続けた。「不惜身命の四千万の島国の民(日本人)がこれを成し遂げたのだ。何故四億の支那人と三億のインド人が、略奪を事とする西洋のこれ以上の侵犯を食い止めるために武装してはならないのか」と、アジアの諸民族が立ち上がることを呼びかけたのである。

これは岡倉一人ではなく、日本人共通の心情でもあった。『脱亜論』を書いた福沢諭吉も、実際には私財を投じ慶應義塾の塾生を派遣して朝鮮の近代化に尽くしている。また、朝鮮、支那、ベトナム、インドなどからの亡命者たちを助け、その独立闘争を支援したのは、玄洋社の頭山満や黒龍会の内田良平ら、戦後右翼のレッテルを貼られた民間日本人有志たちである。実際、孫文の中国革命を志す組織が最初に結成されたのも、東京の内田邸であった。

こうした日本人に脈々と流れる「大アジア主義」の思想は、日本政府の政策にも反映されて、国際連盟規約への「人種平等」条項の提案や、満州国建国時の「五族協和」の思想に生かされた。そして遂には大東亜戦争の目的とされた「アジア解放」「大東亜共栄圏の構築」という理想にも繋がっていった。

そこにみられるのは、侵略の思想などではなく、アジア諸民族の独立を願い、連携を求め続けてきた真の日本人の姿なのである。

(次回は4月28日号掲載)

〈筆者プロフィル〉髙崎 康裕(たかさき・やすひろ)

ニューヨーク歴史問題研究会会⻑。YTリゾリューションサービス社⻑として、日系顧客を中心とした事業開発コンサルティング、各種施設の開発企画・設計・エンジニアリング・施⼯管理業務等を⼿掛けている。シミズディベロップメント社⻑、Dillingham Construction代表取締役、東北大学特任教授歴任。現東北大学総⻑特別顧問。著作に「建設業21世紀戦略」(日本能率協会)、「海外業務ハンドブック」(丸善)、 「海外プロジェクトリスクへの対応」(エンジニアリング振興協会)など多数。

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