〈コラム〉どんな人も動く

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丸山敏秋「風のゆくえ」第13回

ある本で知ったジョークを一席。
テキサスのジョージは息子に農夫としての資質があるか不安だった。そこで彼の部屋にこっそり聖書とリンゴと1ドル札を置いてみた。もし息子がリンゴを手に取ったら農場が継がせよう、だが聖書を取ったら牧師に、1ドル札を取ったら銀行家にしようと考え、彼が戻ってからドアを開けた。
すると息子は、聖書に腰掛けてリンゴをかじっていた。「おい、1ドル札はどうした?」と尋ねると、「知らないよ」と答える。結局、息子は政治家になった。
これはもちろん前大統領を揶揄したジョークである。失礼ながら筆者は、これをときどき家庭教育をテーマにした講演で使う。政治家はウソつきだ、と言いたいのではない。子は親の思い通りにならない例として使うのだ。
わが子であろうと誰であろうと、相手を思い通りに動かすのは難しい。動かそうとすれば反発され、関係がこじれる。そもそも思い通りにさせようと考えるのが間違いなのだ。
しかしまたリーダーは、部下を上手に動かさなくてはならない。さて、どうすれば人は動くのだろう。
不滅の名答がある。自己啓発書の元祖とされる『人を動かす』を書いたディール・カーネギー(1888〜1955)はこう述べた。――自ら動き出したくなる気持ちを起こさせることだ、と。ではどうしたらその気持ちを起こせるか。――相手の欲するものを与えたらいい、と。なるほどそうだ。しかし、欲しいものは人によって異なる。見極めるのも容易ではない。
ここからがカーネギーの真骨頂である。たいていのものは自分の努力次第で得られる(可能性はある)。しかし皆が欲しがりながら自力ではけっして得られないものが世の中にはある。それを与えたら、どんな人も必ず動くというのだ。それは何か。
カーネギーの言い方では「自己の重要感」である。自分は重要な存在だと感じるには、他者からそう言われなくてはならない。すなわち認められることだ。誰でも自分を認めてくれる人のためには喜んで動こうとする。例外はまずない。
こんな単純なことが意外に忘れられている。だから権力にものをいわせたり、金や物をエサにして人を動かそうとする。それでは相手が本心から動いたことにならない。
賞めるのと認めるのはイコールではない。賞めるのは上から目線で、利害が伴いやすい。認めるときには、利害を離れ、相手を畏敬する気持ちが伴う。たとえその相手が子供であろうと。
自分は認められたいと思いながら、他人を認めたがらない。それが現代人の特徴ではないか。
筆者の職場近くに、よく立ち寄る本屋がある。そこには今でも、カーネギーの『人を動かす』が置いてある。
(次回は5月12日号掲載)
maruyama 〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『今日もきっといいことがある』(新世書房)など多数。

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