【連載】おばあちゃま、世界を翔ぶ-5 ビザ問題で民族オペラ公演ツアーに数々の難事

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龍村ヒリヤー和子〜情熱とコンパッションの半生記〜

チベット民族オペラ

チベット民族オペラ

第5回 チベット人が初めてアメリカにやってきた話

 

欧州公演次々とキャンセル

1975年秋、チベット民族オペラの北米とヨーロッパ公演ツアー、いよいよ出発です。

一行を飛行機に乗せて、アテネ乗り換えでアムステルダムに行くはずが、アテネの乗り換えゲートで38人が足止めを食らってしまって。その日、オランダやフランスなど旅程にある各国で、演奏に必要なビザがどんどん却下されていったんです。なぜこんなことが、と思ったら、中国政府が各国に働きかけて、一度許諾が出たはずのビザや公演をキャンセルさせる動きをしていた事が分かったのです。お金はアムステルダムで渡す予定だったので一行に食事すら食べさせられない…大変でしたね。

私が思いついたのは、空港タワーの責任者に電話するということでした。最終的には彼が仕切っているからと解釈したのです。

必死になって40分も話しました。「乗り継ぎ待ちのチベット人はお金も持っていないし、パスポート代わりのNORI(No Objection Return India)という1枚の紙しか持っていない無国籍の人たちです。飛行機に乗せなかったらどうするんですか!」って脅して、なんとか飛行機に乗せてもらいました。私はすぐにアムステルダムに飛びましたが、ツアー日程のキャンセルが次から次へと入ってきて気が遠くなる思いでした。3年もかけて苦労して準備した公演が眼の前で次々と崩れていったのです。

アメリカ入国に秘策

これではアメリカでの公演も危ない! と思いました。全部キャンセルされてもアメリカとカナダだけは行かなきゃ! と思い、まずニューヨーク時間の午後5時に米国務省に電話を入れました。そして「スイスの大使館に至急今晩中に電報を入れてほしい。インドのダンサー38人がアメリカ公演に来るのだが、ヨーロッパ演奏旅行が始まるので大使館にビザを受けに行けるのは明日の朝しかない。9時に代表に行ってもらうから是非御願いします」と電報を打って貰ったのです。

そのころ私は国務省でもよく知られていて、たとえば有名な歌手等が急に病気とかで代わりのビザを至急取得することには慣れていましたし、電報を出す人とも付き合いがあったのです。スイスの朝9時ならワシントンは未だ開いていないのできっとビザは出るだろうと予測しました。そしてチベットの代表者に「行く先を教えないで即座に消えてください」と伝えました。案の定、朝になると私の事務所に電話が入って、「ビザに問題があるからもう1度大使館に来てください」と言ってきたのです。私は「どこへみんなが行ったかわかりません」と、とぼけて一方的な返事で通しました。結局ヨーロッパの公演は全部キャンセルで1カ月ほどスイスのチベット難民キャンプに行ってもらい、お小遣いは一人一日たった4ドルほどでその間、チベットの子どもたちに色々と教えてあげてください、とお願いしましたね。

予定通りに、JFK国際空港に到着すると妨害に合うのは確実だったので、中国からまた邪魔が入ってキャンセルされる前に、一行をスイスからまずカナダのトロントに入れ、ナイアガラから歩いて1度米国へ入ってご褒美にナイアガラの滝を見て、カナダのツアーをまずやり遂げて、その後また徒歩でアメリカへ再入国してもらって…、一度入国のスタンプを押してもらっているからアメリカへ再入国しても大丈夫なので、こうして難事を切り抜けたのでした。

大成功だったNY公演

ニューヨークでの公演はハンターカレッジで実施しましたが大成功でした。当時はまだロバート・サーマン氏によるチベットハウスも立ち上げられておられず、歴史上初めてチベット人をアメリカに連れてきたのがこの私。誰もチベットのことなど知らなかった時代、中国とアメリカは国交もなかった時代でしたがどこからか中国の反チベット団体が「チベット人は野蛮で人間の頭蓋骨でお茶を飲んでいる」などと毎日どこへ行ってもデモに現れました。そんな中、ニューヨーク・タイムズにとても立派な記事が出て、周囲は皆驚いたものです。すごく辛い旅でしたが、皆よく我慢してくれました。各地で大成功でした。

私の方は大変な赤字で破産する一歩手前でした。素晴らしいことをしているのだからと自分に言い聞かせて何とか乗り越えました。今でもパフォーマーとしてがんばっている方が多いですね。このツアーをきっかけにダライ・ラマ様がTIPA(Tibetan Institute of Performing Arts)をお創りになりました。

(次回は11月18日号掲載)

◇ ◇ ◇

龍村ヒリヤー和子(たつむら・ひりやー・かずこ) 東洋医学医師、人道活動家、Gaia Holistic Inc代表。
兵庫県宝塚市生まれ。音楽家にあこがれ幼少時よりピアノに親しみ、桐朋学園大学を卒業するが、1961年に渡米しボストン大学・ニューヨーク大学を卒業後、音楽家ではなく国際興行主としての活動を開始、グローバルな舞台芸術と文化交流の先駆者なる。世界各国の首脳やセレブリティーが関わる歴史的記念イベントの制作・演出などにも関わり、公式な外交関係のない国家間の文化交流促進にも寄与するなど多大な貢献を重ねてきた。世界中で毎年1年2000回のプロデュースを手掛け、148カ国以上を訪れ、何度も表彰されている。
2000年より東洋医学の医師に転身、01年ガイア・ホリスティック・サークルを設立し代表に就任、07年には出版社「心出版」を立ち上げる。世界各地の避難民、戦争犠牲者、ホームレスや家庭内暴力の犠牲者などの救済を行うなど人道的活動においても多大な貢献を続けており、世界各地での慈善事業に従事する他、チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世と共にチベット孤児の教育活動に従事している。遠赤外線温熱療法にテラヘルツを組み合せた独自なホリスティック療法は世界的に評価されている。今は世界の会議から招待され、発表、教育をしている。
01年、9・11の米同時多発テロ悲劇のすぐ後にガイア・ホリスティック基金を創設。「212-799-9711まで、お電話ください。感謝合掌 和子」

(2017年11月4日号掲載)

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