〈コラム〉遠いまなざし

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倫理研究所理事​長・丸山敏秋「風のゆくえ」 第72回

日本の文部科学省は小学校における英語教育を着々と進めている。グローバリゼーションに対応するためだというが、もはや発想が古い。世界はいま、反グローバリゼーションの方向へ動いている。また、日進月歩のAIの開発により、スマートフォンにインストールされた自動翻訳アプリを使い、ほとんどの外国人と自由に会話できるようになる日もそう遠くない。

日本は教育のレベルが高いと言われるが、はたしてそうか。平均的な人間の大量生産には向いている制度だが、教養あるエリートは育ちにくい。教育とは相手に情報を注入すればよいものではなく、それであればティーチング・マシンで済む。情報が結びついて知識となり、知識が経験やイマジネーションを通して熟成され、教養になる。いくらたくさん情報や知識を持っていても、それだけでは教養人と言えない。

なぜ教養が求められるのか。それは、豊かな教養が人格の基盤となり、大局から物事を見る目を培うからだ。教養を欠くと、ある部分や目先のことしか目に入らず、判断を誤りやすい。それではリーダーとして失格。現に、大局観を欠いた政治家や役人のなんと多いことか。偏差値教育からの脱皮が強く求められる。

剣豪の宮本武蔵が『五輪の書』で「見の目」と「観の目」とを分けて論じたことは、以前の小欄にも書いた。武芸の立ち会いの際に「観の目強く、見の目弱く見るべし」と武蔵は極意を説いている。「見の目」とは、相手の刀が長いとか短いとか、周囲に何があるかとか、構え方がどうだこうだと分析的に見る普通の目である。

それとは違って「観の目」は、相手の存在をまるごとの全体としてキャッチする。見ようとする意識が目を曇らせるので、目玉を動かさずに、見ようとしないで見る。近視眼ではない遠いまなざし、いわゆる「心眼」である。

宮本武蔵のそれを受けて、文芸評論家の小林秀雄はこう述べた― ―「観という言葉には、もともと或る立場に立って、或る立場に頼って物を見るという事を強く否定する意味合いがある」(『私の人生観』)。

武芸者が「観の目」を得るには、それ相応の修行を必要とする。苦労を重ねて人生を歩んだ人にも、「観の目」が養われてくる。目先の物事に一喜一憂せず、苦難に見舞われても悠々と受けとめて対処できるのが、人生の達人である。

そのような達人の目は、上空から地上の自分を見るように、高い次元から物事をとらえる。また逆にそれは、一輪の花に高次元の大生命を感得する目でもある。

山路来て何やらゆかし菫草(すみれぐさ)

よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな

まぎれもなく人生の達人だった松尾芭蕉は、「造化にしたがひて造化にかへれ」と教えた(『笈の小文』)。「造化」とは、生成化育してやまない大自然の力である。その力を確信した遠いまなざしで人生を眺めれば、もはや恐れ嫌うものなどない。

かつない人類文明の大転換期を生きるわれわれは、こんな凄い時代に生まれたことを喜び、遠いまなざしを鍛え養いながら、毎日を堂々と歩んでいきたい。

丸山敏秋

〈プロフィル〉 丸山敏秋(まるやま・としあき) 1953年、東京都に生まれる。筑波大学大学院哲学思想研究科修了(文学博士)。社団法人倫理研究所理事長。著書に『「いのち」とつながる喜び』(講談社)、『「いのち」の輝き』(新世書房)など多数。

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